寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば  いづこも同じ 秋の夕暮れ

読み方「さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆうぐれ」

ふと寂しくなり、家を出てあたりをながていると、どこも同じような秋の夕暮れであるなあ。

良暹法師(りょうぜんほうし)

 平安初期のお坊さんですが、生まれた年も亡くなった年も正確には分かっていません。

だたながめているのではないのです

「ながむれば」とあります。今でも「ぼんやりとながめる」という言い方があります。この時代の「ながめる」は、ここに「もの思いにふける」という意味がこめられていると思ってください。

 だから、「宿を立ちいでてながむれば」の意味は

「家を出て、もの思いにふけりながらあたりをながめると」

という意味があります。

いづこも同じってどういうこと?

「いづこも同じ秋の夕暮れ」

 ここは、私が勝手に考える解釈なので、正解ではないかもしれません。でもこういうのを自由な気持ちで考えるのが、国語の楽しさの一つです。

 みなさんは「いづこも同じ」「どこも同じ」という表現にどんな感覚を持ちますか?

①「どこも同じかよ!」=怒り

②「やっぱりどこも同じだよな」=再認識

③「へええどこも同じなんだ」=驚き

など、他にもあるかもしれません。でも「①怒り」はなさそうですね。

 ②や③の「再認識」「驚き」はあるかもしれません。正解はありませんので、皆さんも自由に考えてみてください。

「どこも同じ」って何かとくらべたの?

 しかし、「どこも同じ」というのは、いったい何とくらべて「同じ」と言っているのでしょうか。

 何かとくらべないと「同じ」とは言えません。

 家を出て、うろうろしながら「秋の夕暮れ」をくらべてまわるのでしょうか。夕暮れどきにそんなことをしていたら、あっという間に日がくれてしまいます。

 だから、別にどこかとどこかの「秋の夕暮れ」とくらべたわけではありません。

「寂しさを感じて家を出てみたけど、秋の夕暮れはどこも同じだろうな。だったら寂しさをまぎらそうと、じたばたしてもしょうがないよね。せめてこの夕暮れをながめながらもの思いにでもふけることにしましょうか。」

 作者はこんなことを思っていたかもしれません。

「いづこも同じ」という言葉に込められた思いは、この和歌の中ではっきりと述べられていません。

 はっきりと述べられていないおかげで、読み手が自由にその部分を想像することができます。こういうのを「読み手にゆだねる」と言います。

 しかし、「読み手にゆだねすぎ」はよくありません。

 何が言いたいのかわけのわからない歌になってしまいます。絶妙なバランスで「読み手にゆだねる」ができたときに、このような後世に残るような素晴らしい歌になるのです。

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